日々は去るもの過ぎるもの。

だから書き留めてみるのだ。

(感想編)ファシリテーターズ・インタビュー vol.02

レポート編はこちら。

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今回佐々木さんの話を拝聴しながら、わたしのなかでずっとちかちかと瞬いていたものは、学生時代、わたしが師と仰いだ方の文学論、「母界」だった。「母界」とは師の造語で、それは日本文学をしめす際に多く使われた。大雑把に言うと、文学にはそもそも語り手がいて、その語り手がつくる舞台があり、その舞台に読み手、あるいは書き手が乗る。これらによって作られる舞台、あるいは語られる世界観が母界となる。日本文学にはこの傾向が強く、師と読み解いていく文学は、いつもこの母界に向かう道のりを解く旅のようなものだった。

西洋人が父性を強く感じていく文化であるならば、アジアンはこの母界に生きる文化だということではないだろうか。今回のキーワードとして繰り返し、わたしのなかにはこの「母界」が反芻された。

フラの踊り手であるサンディさんの話は、よしもとばななさんのエッセイで何度も拝読したことがあった。だからよけいに、クムであるひとのつくる世界についても違和感がなく、森羅万象の母といったイメージで受け止めた。

レポート編で少し書いたように、わたし自身は「ファシリテーション」についてまだまだ知識も0に近く、逆にこんなフラットな状態で拝聴して良いのかと不安になるほどのレベルではあったのだけれど、そういう立場で見た時に、ファシリテーターとはいわば「観察者」であり、「読み手」であり、黒子であると感じた。ファシリテーターとは、語り手の描く舞台を、舞台として成り立たせるためにいる、他者の目であり、かつ、同じ舞台を上手と下手で共有するが役にはつかない黒子でもあり、つまり必要な一要素として、その場に繋がり、溶けられる、その世界の土台となる一方で、小さな違和感を語り手に常に与えておくことで、世界を閉じない役割を果たすのではないか、と。

なにかを生み出すとき、ひとは必ず調和が乱れることを恐れるような気がする。けれど乱すことで生まれるものは必ずあって、それは歴代天才と呼ばれるひとたちが、新しい世界を見せることに似ている気がする。知らないものはおそろしい。知ってしまえば安堵できるが、知ったからこそさらに恐れる「知らないもの」ができる。繰り返し、繰り返し、おそれと戦ったひとたちは次第に脱落する。おそれたくないから、知らないものはなかったことにする。だからなにも生み出さないように、平穏に、平穏に生き延びる。そのおかげで、安定した世界が生まれるけれど、腐らせないための破壊が、必ずどこかで必要になる。

その繰り返しのくるしみの旅や、果てにある安寧を、ファシリテーターは見届けるひと、という理解でいいのだろうか。きっとこれから文献や、勉強会を通して、わたしにとっての「正しい理論であるファシリテーター像」ができるのだろうけれど、感覚で得た「ファシリテーター像」は、こんなイメージだった。IT界でつながったガオリュウさんを通して、自分が文学から得てきた世界に帰ってくるとは思わなかったけれど(そしてわたしのこの解釈はたぶんきっと、正しくはないのだろうけれど)、まずは0の状態から芽生えたこの感触は、ここにこうして記録しておこう、と思う。