日々は去るもの過ぎるもの。

だから書き留めてみるのだ。

スタートラインよりも手前から見る、ファシリテーターの背中

仮想敵を作る、というのは、チームを作る上で効果的であり、なおかつ最も手軽で、最もよろしくない手段である、とわたしは思っている。
敵は何でも良い。低賃金に対する怒りでも良いし、チームの中の生け贄が出る場合もあるだろう。上司であることも多いだろうし、クライアントや、なかなか改善されない環境やサービス、自分自身である場合もある。憎まれ役を買って出る上司、というケースもあった。

チームの結束は強まり、プライドや、あるいは侮蔑の気持ちから生まれる向上心というものもそこにはあるが、結局のところ解散するとそこで終わり、また、あるいは対象に実態が無いというだけのいじめと同義ではあるので、次に自分が対象となるのではというこ
ころを生む種となる。結局のところ恐怖政治にちかいとも言えるだろう。そしてこれは、意図をしてつくられた仮想敵よりも、意図せずして作られた仮想敵によるチーム形成というものが、結果として多くある、ということも言えると思っている。

そんな経験が続き、仮想敵から抜け出したい、とわたしは思うようになった。
チームを作る、ということについて、人数の多い場所で働き、徐々に管理の側に近づくにつれ、それは常に意識してきた。そのなかで出会ったことばが、「ファシリテーション」だった。このアドベントカレンダーにお誘いをくださった、@gaoryu さんとの出会いによる。

ファシリテーター」あるいは「ファシリテーション」ということばを紐解くと、何らかの結論を出すべき、あるいは何らかの方向性を出すべき場において、合意形成や相互理解をサポートし、「リーダーシップに近い、またはリーダーシップ能力の1つ」としての記述があるようだ。

「チーム」ではなく、「場」を作る。
わたしが求めているのは、果たしてこれではないだろうか、と思うようになり、
@gaoryuさんを始め、ひとのまえに立つ人たち、そしてその人たちのあつまる場に赴いてじっと見ていると、「場」は面白いほどに動きが見えるようになった(気がした)。
いままではひとが発する言葉のその先を、軌跡を追っていたけれど、そのひとのバックグラウンド、そのときの状況、発言者が同じでも受け止め手が異なる場合の空気の変化、そういったものをフォローしていくひとと、導くひとと、それからついていくひと、壊すひと。

集合の空気とは、ヒトに依存するのではなくて、その「場」に依存する場合も多いのだ、ということをわたしは感じるようになった。
そういう視点でこのアドベントカレンダーの記事を読んでいくと、それぞれに、ひとの思う@「ファシリテーション」術があり、「ファシリテーター」観がある。誰しもがファシリテーターには成り得るが、ファシリテーションは誰でも出来るという易いものでもない。

つまりリーダーになりたいんでしょう、と言う人もいるだろうと思うけれど、前述のように、定義としても、また、役割としても、リーダーシップを取ることはできるが、取ることが目的ではないので、ファシリテーターとリーダーはイコールではない。包括している、という言い方が近い。
目的地は、ファシリテーター本人にも見えないこともある。けれど、ファシリテーションを意識してその場に立つひとたちは、慌てず、溺れず、掴むべき藁の浮いた影や、耳を澄ませば聞こえてくるあぶくのようなつぶやきを拾い、一瞬一瞬のベストと、見える道がつながっているのかを見定めていく。書きながら、ルービックキューブを組み立てるのに似ているのかもしれない、とふと思った。どの色を揃えていくか見定めながら、すこしずつキューブを回す。気づけば1面、2面と色は揃ってゆく。順番の決まりはない。ただ、最後に、6面揃ってそこに置かれるのだ。

わたしは、ファシリテーターになりたいのかと言われると、首を傾げることしか未だ出来ない。けれどファシリテーションを学びたい、という気持ちは膨らみつつあり、また、この御縁を機に、すこしずつ、ファシリテーションの世界を見ているひとたちの話を伺う機会を得始めた。わたしはファシリテーターではないし、未だその世界のスタートラインにも立ってすら居ないが、そのラインの向こうには何人かのファシリテーターたちの姿が見える。彼らは決して、向こうだけを向いているのではない。背中を見せながら、時折こちらを確かめるように振り向く。

わたしの、ひとに対してのキーワードは、長いこと、この、「振り向く」ということばだった。先に行ってもいい、遅れてもいい、誰かが振り向いた時に、自分がそこに居るということ、手を振り返すことができる、ということ。ファシリテーターたちと出会ってから、逆に、その場で誰かがこちらを振り向いている、と感じる。わたしたちは進んでいける。置いていかれないとわかることができる。わたしたちは、ここに居るのだ、と感じる。それはいつか、その場への貢献を意識することに繋がり、何かを生むだろう。

ファシリテーションの定義を、そしてファシリテーターの意義を、わたしが正確に理解しているかどうかはわからない。
ただ、わたしはこうして、出会ってきたファシリテーターたちの背中を見ながら、このスタートラインに立てるだろうかと、この頃考えているのである。