日々は去るもの過ぎるもの。

だから書き留めてみるのだ。

ファシリテーターズ・インタビュー vol.06

本日は、福島毅さん(通称:どんぐりさん)と、本間直人さんのファシリテーターズ・インタビュー。

まずは速記的にメモをした、対談そのままのまとめを。


 

大変恐縮ながら、またも25分遅れでの参加となりましたので、話の途中から。
福島氏は、「直感コンサルタント」という場も設けているというところからのお話のようでした。

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ゆるプレ!

仲間内で、練習もよし、資料なしで話して見るもよし、ガチもよし、のゆる〜いプレゼン会をしようと立ち上げられたその集いに、「いいね!」をしましたら誘っていただけて、先月末、何度めかの「ゆるプレ」に参加してきました。

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今回はT氏の、「らずぱいとSORACOMで楽しむIoT」と、Sさんの「テスト設計周りのイベント活動振り返り」。 Sさんのご活躍に沸いたり、参加者みんなが興味津々でT氏の手元を囲む会と相成りました。

IoTは旬な話題ですが、やはり目の前で何かが組み上げられていくのを見るのは、わくわくするし、テストも、rasberry piも、その話題を知っていた人も知らなかった人も、その場で質問してその場で答えが返ってくる気楽な会なので気詰まりもせず、この「ゆるプレ」というコンセプトはいいなあ、と改めて思った次第です。

ITに限らず、ということなので、例えば職場のメンタルヘルスや人事的な話なども、機会はないけれど話せる準備はしておきたいとか、なんとなく誰かに伝えたいこととか、話の部分だけではなくてプレゼンテーション資料の練習とか、そんなことでも受け入れてくれる会って貴重。また、完全友人関係というだけではなく、ゆる〜い繋がりで参加しているので、全員が知り合い同士でもないために、適度なゆるさと適度な緊張感があって、なかなか面白いです。

話すことで考えがまとまるタイプの自分としては、改めて正式な場であるひとさまにお話するようなテーマは無いものの、その時考えていることをまとめてみようとするには良いチャンスなのかな、と、そのうち何か話してみようと思ったりもします。 

こういう柔軟な集いを積極的にまとめられるひとたちのコミュニケーション力、すごいなーとぼんやりしつつ、みなさまのご活躍情報を聞いて自分も何かがんばらねばー、と思ったり、話題のSORACOMさんの個人ページで登録方法を教えてもらったり、らずぱい設置の時のトラブルシュート的なことを聞いたりと、ネタ的にもモチベーション的にも旬で興味深い部分を聞くことができて、お得な気持ちになりました。 

楽しかったー( ´ ▽ ` )

プロっぽくなる部に行ってみた。

先月末、「プロっぽくなる部」という集いに参加してきました。

いえ、特にひとまえでしゃべる予定というものは無いのですが、最近自分の話しかたが雑になってきたなという気持ちがあること、それからやはり、仕事柄ひとまえでは無いものの、話す機会の多い仕事なので、話すならば綺麗に話したい、という欲がなくはない、というちょっと消極的なような、積極性があるような……という理由(?)による参加です。

そんな及び腰での参加でしたが、参加してみて良かった! 楽しかった! そして、実践的なワザを身につけた!(気がする!)

「プロっぽくなる部」は、フリーMCをされている丸山久美子さんが先生として、トーク術のアレコレを教えてくださる場です。この「なる部」とは別に、講座形式の機会もあるとのこと。ぜひまた行ってみようと思った次第です。

http://s.ameblo.jp/maruyamakumiko/

s.ameblo.jp

有償で、丸山先生がテクニックを磨くためのとある秘法を伝授される場になりますので、内容と秘法については非公開となりますが、さすが人前でお話しされるプロ! 空気は和らぎ、テクニックは心に沁みて、初対面同士でもすっかり寛ぎ、帰路は和気藹々とした空気になるほどの、楽しい部活動でした。

そして、後日談めいた余談ですが、この日参加された1名の方から、こんな台詞が。
「確か先日、河合先生のプレゼンテーション講座に参加されていましたよね……?」

【ついに東京上陸!】パワポ都市伝説に挑む in TOKYO with Windows女子部 2015年9月12日(東京都) - こくちーずプロ(告知'sプロ)

ハイ、河合浩之先生の、「PowerPoint 都市伝説」に参加して、1分間自己紹介プレゼンテーションをして、審査員の皆様から素敵アドバイスを多々いただいた5名のうちの1人がわたしですね……めっちゃ人前でしゃべってる機会がありますやん……?

(実はこの時、突発的に決まった4名の審査員の方の1人が丸山先生で、後日その場では時間的に伝えられなかったアドバイスまで丁寧にメッセージくださったことに感激して、なる部に参加した、という経緯もあったのです)

人前で話す、というのは、プレゼンテーションの内容や資料そのものはもちろん、身体動作も、口調も、滑舌や声の大小、姿勢に至るまで、まさに全身全霊をかけたひとつの舞台のようなものです。

特に、自分の場合は、臨機応変に話すことを求められる場にいることが多いので、アナウンサー講座のような話し方とは、すこし求めているものが異なります。
今回の丸山先生の「なる部」は、その部分にぴたっとハマるので、期間をおいて反芻したうえで、2度、3度と受けたい講座でした。

丸山先生、ありがとうございました!

フラメンコはすてき。

ご縁があって、スペイン舞踏の舞台を観てきました。

フラメンコ公演・フラメンココンサート ライブ

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スペイン舞踏、代表的なものはフラメンコと呼ばれる舞踏ですが、本当に情熱的。衣装もひらひらと動きに映える、かといってレーシィ過ぎない、とても流麗なラインのものが多く、また、色が鮮やかな組み合わせではっとします。
静と動の対比が激しく、指先まで所作がうつくしい姿は圧巻。また、激しく踊らないまでも、出てくる村娘たちのきゃっきゃとした表現の動きや表情は可愛らしくてきゅんとしました。

若く無邪気な様子をしめす、ドットやポイントのある愛らしい衣装と、反して階級の高いお嬢様たちの身につける、無地だけれど鮮やかな原色の組み合わせとマーメイドラインのような衣装との対比もまた素敵で嘆息。

トーリーは、まさに、「愛に生きて愛に死す」。
1人の女性が、息子と母を捨てて愛に生きようとしたものの、全てを投げ打ってついて行った相手は愛も女性をも裏切って、新しい村で新しい出逢いをし、あろうことか結婚までしてしまいます。
病に冒され、幾ばくもない余命の中、彼女は苦しみながらも愛に殉じ、そして最期、自分が置いてきた息子に似た、母を失くして泣いている少年を抱きしめながら、徐に息を引き取ります。まさに、情熱の国の物語、といった感じ。

けれどその熱や愛を訴える舞踏の動きは、同じ1人の身体なのにも関わらず、時には硬く鈍く、しかし重厚で、また時には羽の如く軽やかで、表現というものの強さと美しさがこれほど幅広くヒトの体で生み出されることに、驚嘆せずにはいられませんでした。

素敵な機会をくださった方に、心からのお礼を記しつつ、またぜひ観に行こうと決めた次第です。うっとりしたー!

Cogito ergo sum.

どんどん脳を使う ~左脳・右脳×2次元・3次元   4領域を鍛えあげて 明日の仕事を変える方法~

どんどん脳を使う    左脳・右脳×2次元・3次元   4領域を鍛えあげて 明日の仕事を変える方法

どんどん脳を使う 左脳・右脳×2次元・3次元 4領域を鍛えあげて 明日の仕事を変える方法

 

 

この著者である、脳外科医 篠浦伸禎氏の考え方をもとにした、「脳活学研究講座(脳テスト付き)」を受講してきました。

ひょんなことからご縁が出来た西尾さんは、女性のためのデザインスクール、「CopenCollegeの立ち上げ支援をし、自らも、フリーランスを支援する「FabLifeSchool!」を運営される、デザイナでもあり、コンサルタントでもあります。なにを聞いてもわかりやすく面白く、なおかつ説得力も抜群なので、時折こうして、西尾さんと「愉快な仲間たち」の集いに参加し始めました。

脳、いわゆる「思考をする機能」は、右利き、左利きというように、やはり「利き側」があるそうです。それを分析して、タイプわけしたのが脳活学。自分を分析して、得意どころを伸ばしていくために、まずはその思考タイプを知ろう、というのが今回のテーマ。

たとえば、「ちゃんとしてよ!」の「ちゃんと」。

  • ちゃんと、わいわい楽しく進めてほしい。
  • ちゃんと、手順どおりに進めてほしい。
  • ちゃんと、数字のとおりに進めてほしい。
  • ちゃんと、センスよく工夫して進めてほしい。

似ている気もしますが、方向性はばらばらの「ちゃんと」がこんなに存在します。言われてみれば、自分はおそらく、前者2つの思考にちかいけれど、あのひとは違うな、このひとは似ているな……というケースが浮かびました。

脳を鍛える、つまりこれは、思考性を把握し、冷静に思考を見直し出来る自分が確立されるということ。つまり、=(イコール)自我(主体性や軸)を強くするということ。

自我を強くすることにより、

  • 様々な厳しい局面でも粘り強く解決できる
  • ストレスに強くなる
  • 向上心に結びつく
  • 調和が取れるようになる

という、さまざまなメリットが発生するようになるのだそうです。

まずは自己分析からということで、さっそく、カードを使った簡単な診断と、60問からなる脳テストを受けてみました。

この脳テストは、前述の書籍の著者が脳外科医手術のなかでも、意識のある状態で手術をするという「覚醒下手術」によって、脳のどの箇所にどの機能があるのかということを少しずつ把握して、その知見と知識をベースにしたものだそうで、よくあるEQテストやエゴグラムなどに似た選択肢をひたすら、直感的に選び進めていきます。

ある程度の結果は出たものの、さらにそれを後日詳しいレポートにしていただけるということなので、それまでは結果は楽しみに、Blog上では伏せておくことにします。

さて、よく言われる利き脳。
左脳…論理的に考える(インプット)取り込む思考性の脳
右脳…感覚的にバランスを取る(アウトプット)表現する思考性の脳

と分類されていますが、ここではさらに、次元性も掛けあわせてタイプがわけられました。

一次元(魚の眼)
 手が動く、単純作業、情報処理の次元

二次元(虫の目)
  相手のために、個々に情報処理をする次元

三次元(鳥の目)
  俯瞰して、なにが大事か本質を探り、自分の考えで処理をする次元

インプットをして、アウトプットをする自分の思考の流れにおいて、どのような処理が進んでいくのか、ということも踏まえると、確かに自分の生活のなかで、より自分を客観的に見つめなおすことができました。なるほど、なるほど……。

ではそんな自分の思考性を、どう強みにするか、そして、相反する弱みを知ることで、それをどうフォローし、補強していくか、ということをそれぞれ自分のタイプについて公開しながら、参加者同士で話していると、不思議なことに、初対面同士とは思えない空気になりました。お互いの考え方の流れが、理論的に解釈できたからかもしれません。

自分の分析は、後日のレポートを待ってからとして、このテストが気になる方は、はじめに記した書籍を購入されると、ウェブ上で受験することができますので、ぜひお試しください。

自己分析と自己反省が趣味みたいなネクラーな自分にとっては、かなり面白く興味深い講座でした。書籍も楽しみに読み進めているところなので、感想も残しておきたいところです。

(感想編)ファシリテーターズ・インタビュー vol.02

レポート編はこちら。

komali.hateblo.jp

今回佐々木さんの話を拝聴しながら、わたしのなかでずっとちかちかと瞬いていたものは、学生時代、わたしが師と仰いだ方の文学論、「母界」だった。「母界」とは師の造語で、それは日本文学をしめす際に多く使われた。大雑把に言うと、文学にはそもそも語り手がいて、その語り手がつくる舞台があり、その舞台に読み手、あるいは書き手が乗る。これらによって作られる舞台、あるいは語られる世界観が母界となる。日本文学にはこの傾向が強く、師と読み解いていく文学は、いつもこの母界に向かう道のりを解く旅のようなものだった。

西洋人が父性を強く感じていく文化であるならば、アジアンはこの母界に生きる文化だということではないだろうか。今回のキーワードとして繰り返し、わたしのなかにはこの「母界」が反芻された。

フラの踊り手であるサンディさんの話は、よしもとばななさんのエッセイで何度も拝読したことがあった。だからよけいに、クムであるひとのつくる世界についても違和感がなく、森羅万象の母といったイメージで受け止めた。

レポート編で少し書いたように、わたし自身は「ファシリテーション」についてまだまだ知識も0に近く、逆にこんなフラットな状態で拝聴して良いのかと不安になるほどのレベルではあったのだけれど、そういう立場で見た時に、ファシリテーターとはいわば「観察者」であり、「読み手」であり、黒子であると感じた。ファシリテーターとは、語り手の描く舞台を、舞台として成り立たせるためにいる、他者の目であり、かつ、同じ舞台を上手と下手で共有するが役にはつかない黒子でもあり、つまり必要な一要素として、その場に繋がり、溶けられる、その世界の土台となる一方で、小さな違和感を語り手に常に与えておくことで、世界を閉じない役割を果たすのではないか、と。

なにかを生み出すとき、ひとは必ず調和が乱れることを恐れるような気がする。けれど乱すことで生まれるものは必ずあって、それは歴代天才と呼ばれるひとたちが、新しい世界を見せることに似ている気がする。知らないものはおそろしい。知ってしまえば安堵できるが、知ったからこそさらに恐れる「知らないもの」ができる。繰り返し、繰り返し、おそれと戦ったひとたちは次第に脱落する。おそれたくないから、知らないものはなかったことにする。だからなにも生み出さないように、平穏に、平穏に生き延びる。そのおかげで、安定した世界が生まれるけれど、腐らせないための破壊が、必ずどこかで必要になる。

その繰り返しのくるしみの旅や、果てにある安寧を、ファシリテーターは見届けるひと、という理解でいいのだろうか。きっとこれから文献や、勉強会を通して、わたしにとっての「正しい理論であるファシリテーター像」ができるのだろうけれど、感覚で得た「ファシリテーター像」は、こんなイメージだった。IT界でつながったガオリュウさんを通して、自分が文学から得てきた世界に帰ってくるとは思わなかったけれど(そしてわたしのこの解釈はたぶんきっと、正しくはないのだろうけれど)、まずは0の状態から芽生えたこの感触は、ここにこうして記録しておこう、と思う。

 

(レポート編)ファシリテーターズ・インタビュー vol.02

もう2年経過したことに驚くのだけれど、ITコミュニティ祭りでのパネラー登壇をご縁として知り合った、@gaoryu さんが主催する、「ファシリテーターズ・インタビュー vol.02 佐々木薫さん× ガオリュウさん」編に参加してきた。

もやもやとたくさんの感情と過去の経験とこれからが浮かんで消え、だからきちんと何かにして残しておこう、とこれを書いている。かなり長文になる、予感。

不勉強で恐縮だが、わたしは「ファシリテーター」という存在を正確には理解していないだろう、と思う。ただ、ガオリュウさんのことばで、「場をつくる」というキーワードがずっと心にたゆたっていた。最近、様々なことによってよりいっそう、「場をつくる」ことに関心が強くなっていたところに、このイベント情報が飛び込んできたので、すぐに参加を決めた。そういう意味では、本日のセッション後の参加者の話のなかで、
ファシリテーターになりたい、と思う人っているのかな?」
という疑問の答えのひとつとして、「たぶん、いまここにそう思いつつある人間が生まれつつあります」ということが言えるかもしれない。その場合、わたしへの種は、ガオリュウさんが撒いた、ということになる、と思う。ある種ある意味、憧れの方、なのである。

自分自身は、いままで「場」というよりも「チーム」をつくるために、ある時は異分子として、ある時は特攻隊長(笑)として、あるときはお母さん(あるいは小姑)として動いてきた。立場と所属が変わり、それ以外の立場や動き方を考えたときに、この、「場をつくる」がぷかぷかと目の前を泳ぐので、取っ掛かりを探しに来た、ともいえる。

恐縮ながら、都合により遅刻参加だったので、はじめの部分を聞き逃してしまったが、途中からのレポートを兼ね、ぼんやりと自分の思考整理をしようと思う。
なお、リアルタイムでだいぶ打ち込みをしたけれど、話に夢中になって断片的であった箇所も多いので、誤りや、あるいは意図しない伝わり方になっていた場合は恐縮だが、参加者の方からご指摘いただければ幸いだし、適宜修正したい。

この記事は、多少断片的ながら、当日のセッションの記録を残す。感想は、次回記事で。

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佐々木薫さん
エンパワーメント・ドラムサークル
「プロフェッショナル・ファシリテーター---どんな修羅場も切り抜ける6つの流儀」

プロフェッショナル・ファシリテーター---どんな修羅場も切り抜ける6つの流儀

プロフェッショナル・ファシリテーター---どんな修羅場も切り抜ける6つの流儀

 

 

などの翻訳・著作をお持ちになっている。
ガオリュウさんによるご紹介文を引用する。

 

2003年より、打楽器の即興演奏「ドラムサークル」のパイオニアとして、のべ2万人以上をファシリテート。2009年に「学習する組織」に出会い、対話の場作りや組織開発に携わり、ユニークな研修を多数開発。言語・非言語のファシリテートを通じて、ファシリテーター自身の「あり方」が場に大きな影響を与えることに気がついて探究を始め、『プロフェッショナル・ファシリテーター どんな修羅場も切り抜ける6つの流儀』(ラリー・ドレスラー著、森時彦監訳、ダイヤモンド社)を翻訳、ドラスラー氏認定の日本唯一のSIFワークショップ・ファシリテーターに。Case Western Reserve大学認定AIファシリテーター、認定NLPプラクティショナー。
また、'89年から世界各国の先住民支援や環境保護活動を行い、民族学シャーマニズム、社会言語学、自然、ボディワーク等の造詣も深いため、それらもファシリテーションの参考にしている。

入室したときは、
「活動家たちの集まりに参加」した佐々木さんの、体験の結果にさしかかったところだった。

反対・賛成どちらの立場にも加担しないけれど、かわりにここにずっと居て、祈ることにした」と佐々木さんは仰った。

そういう体験談から、佐々木さんのドラムサークルに参加したときのはなしに移っていくのだが、「祈り」というキーワードがわたしには最後まで残った。

切れ切れではあるけれど、本日のセッションのなんちゃって記録を残す。

▼ガオリュウさん
—–参加者たちというのは、果たして個人が勝手に変わっていくのだろうか、それともやはり、何かしら、薫さんたちの、まわりの影響を受けた形で変わるのだろうか?
—–自分が最近変わったな、と思うことがあるけれど、それはなにかを諦めたとき。諦めたときにやっと、未だ違う道がある、と思って動いていける。

▽佐々木さん
……『100匹目の猿』かもしれない。
そもそも、活動家にとって、企業は敵ではない。イケてる企業っていうのは必ずあって、そういう企業こそ、いいこと、すばらしいことをしようとしている。これじゃ活動家のほうが負けてるよって、わたしは最近声をかけている。
活動家、は、こころ。活動家 at Heart。

▼ガオリュウさん
—–祈っていた時期から他の場所にいくときに、サークルのなにを見て心を開いて付き合うというのは、これだ、と思ったのか。
—–自分は最近、ツール(手法)に対して執着を持てなくなっている気がする。例えばIT界だとアジャイルと呼ばれる手法もあるけれど、そういったいろいろなツールの源流はファシリテーションでは? と思ってしまうと、源流=ファシリテーションを抑えていれば、ツールは必要ないのでは? と本気になって踏み込んでいけなくなったように思う。

▽佐々木さん
……じゃあ、ファシリテーションってなんですか、ってよく聞かれるけれど、それはいろいろでしょう。自分ははじめ、「うっかり」だった。わたしは割りとうっかりなんです。本が出るたびに世界が変わってしまうことになるから気をつけている(笑)
……ドラムサークルで、完全受容の世界を知った。アメリカまで師匠になるひとに会いに行って、海外から来たっていうのは、初めてだったみたいで。その場がとても、驚くほど受容された気がする世界で、そこから宿に戻っていって、街の喧騒とか喧しいそういう場所で、そんなに違う世界(街)に出ると、全部硝子の破片が刺さってくるように感じた。そして、つまり世界はこれほど傷つけあったり、こう、投げ合ったりして暮らしているのだと感じた。そしてそれくらい、サークルはミラクルな場だった。
……クムフラという存在がハワイにはあって、フラダンスだけではなくて、伝統やら医学やら科学やら伝承やら、いろいろなすべての知恵を極めた世界を知るひとをクムと呼ぶのだけれど、その有名なクムのひとりに、サンディさんの師匠にあたる方がいる。
……自分の師匠にあたるアーサー氏にも、右腕、左腕になるひとたちがいて、そのひとたちがきっちりやっていた。
……きちんとしたシステムになっている。メンターがいて、安定感もある。エゴが壊れてしまうひともいるけれど、ちゃんとお世話をする。フィードバックを、自分を正当化することなく受け止めていくことになる。ドラムサークルでは、みんながまるくなって集まっているなかで、つまり集合的な場のなかで、少しずつ動いて変化を探る。ひとが動けば音がして、その音はうごけば変わる。集合的な音も、ひとが動けば変わる。だって音は旅している。「ここ」にいたときはいいと思ったけれど、動いてみたら違った問うこともある。自分のなかのナイスアイディアを捨てなくてはいけなくなる。捨てていくと、そのうちすべきことが降ってくる。参加者たちがこれをして欲しいと思っていたものが自分に降ってくるようになる。プランに固執しないということ。

▼ガオリュウさん
—–直感というか、無意識に選んでいるのではないかなと思っている。経験で蓄積されてきたものから、出てくる、たくさんの蓄積された情報の中で、たったひとつ見つけた何かというか。

▽佐々木さん
……うまくやりたいじゃない、いいかっこしたい、成功したいというエゴ。自分の場合は身体が踊っているときや、突然すっと眠くなるときはうまくいくとき。体が勝手に動いていて、そうすると頭がパニックになる。身体がAをやろうとすると頭に違う、と言われる。Bをやろうとすると、そのためにはAになってしまって、頭が違うと思ってパニックする。それでCをやってみると、それだ! となる。
……Power of Being 思考というか、ありかた? ありかたのちからがある。ペーシング&リーディングというか、結局その場で、社会的なアイデンティティの破綻も起こる。人格は破綻させちゃだめなのだけれど(笑)
……結局エゴというのはこうあるべき、こうしてほしい、こうしたいこうするとかっこういいだろういたいなもので、そのエゴの死をたくさん経験したほうがいい。男性パーカスは割りと思考がマッチョなので(笑)
……自分もアイデンティティの破綻というか、つらいことがあった。ただ、つらいことがなくちゃいけないということではなくて、そういうエゴが壊滅するようなことがあって、そこから先へのプロセスがとても大切。
……アーティストとファシリテータは違うものです。例えば縦軸がコントロールの量だとして、横が時間軸としたものがあったときに(と円が1/4になったときの右上の部分のようなグラフを描かれる)、コンダクタがいて、それで、横軸の時間軸とともに、物理的なものからスピリッツ的なものへスライドして、コントロール量は時間経過とともに減っていく。

▼ガオリュウさん
—–理論について、自分の場合理論が入るとできなくなってしまうことがある。体感で得たものを体験でつかっていて、理論が入ってくると、間違えたかもと不安になる。正しい答えというか、理論に囚われてしまう。けれどあるところまでいくと理論は必要なのかなと思うこともあって、そういう理論と体感についてはどうなのだろう。

▽佐々木さん
……わたしには理論はない、覚えられないし(笑)でもじつは出身は理系なんですよ。だから、右脳開発してたら、右脳だらけになっちゃった。
……守破離の話ですよね、自分は放置プレイということを覚えた(笑)ミュージシャンは、破壊を恐れるんです。うつくしい音楽というものを知っているので。けれど、そのサークルや場で作っているのは音楽ではなくて、関係性。わたしはそれをしばらく放置していた。そうしたら崩壊した。みんな崩壊は世の終わりかもって思ってしまう。けれどそのおそれは、音楽がうつくしくないからではなくて、自分が格好わるいから。
……そこに自分が早く介入したいと思う。自分にはその崩壊が見えるから、けれどそこで介入を早くしてしまえばするほど、彼らが自分で学べなくなる。崩壊してもいいじゃない、と思って(笑)
……ファシリテーターとしては、もう、そこにいたっけ? と言われるくらいで。遠くから見守っていると、彼らが自力で何かが始まったんです。崩壊ではなくて、自分たちでルールを決めて終わらせる。崩壊ではなくて自主的に終わる。今日限りのルールを決めて終えていくと、今日限りだから執着もない、楽しいし、クリエイティブ。

▼ガオリュウさん
—–ほぼ自分の存在がないようにしていくのが究極のファシリテーターだよなあと……あちこちで、チームビルドとかも踏まえて、技術も含めた研修などをするときに、満足感だとか、良い場の提供だとかはできるしするのだけれど、結果をコミットはできないという恐怖もある。

▽佐々木さん
……どうするんですかとか言われてもね、結果を聞かれても、困る(笑)

▼ガオリュウさん
—–ファシリテーションとは、やはり日本から出ている考え方ではないのかなと思うこともある。

▽佐々木さん
……日本というか、アジアンの、「わたし」と「外界」の差がないんですね。ティムールもそうかな。言語的にそう。あなたという言葉とわたしたちという言葉がおなじ。日本の方言だとか。関西の、「我」が「おまえ」だったり。
……身体がつながっているとかきちきちとか意識していない。日本人はそういうことに気がつかない。アメリカ人は「場」としか言えない。気配や風土? といったものへの愛着についてアメリカ人にうまくつたえられない。
……たとえば、福島のひとたち、同じような土地で同じような環境で同じようなコストの場所を与えますというときに、土地への愛情、愛着というのがあって、他の場所に同じ条件の場所をもらっても、行きたくない。インド人にはもしかしたら、これがわかるかも。アジアンもわかるけれど、西洋人にはこれがわからない。
……先日はこういった内容を翻訳しなくてはいけなくて、その場に西洋人もいたので、どう訳したら伝わるのだろうかと。結局、先住民とか、そういった言葉を使った。

▼ガオリュウさん
—–日本では、そもそもファシリテーションは必要なのか、あるいは日本独自の方法が必要なのか? 

▽佐々木さん
……言語構造とか、社会構造とか、いまの構造のあいだに乖離があると思う。こころの部分は変わらないのに乖離があって、その乖離でこころの病気になりそう。
……ドラムサークルから始まったファシリテーションだけれども、使用前使用後の、大きな自分の違いがある。たとえば、あなたは今後ひとつのことしかしちゃいけないと言われたら、どうしますか? わたしは、「全面的に信頼すること」と答えます。自分は、これも過去の経験によるものだけれど、すべてのひとが神様だと言われて、このひとも神様、あのひとも神様、って思って過ごしていた時期がある。
……もちろん、これだけは、このひとだけは受容するのは無理と思うこともある。このひとも神様だって自分では思っているけれど、いやいやこのおっさんのことは無理だろうって思っている自分がいる。じゃあドラムサークル後になぜできるようになったかと。
……わたしの猿知恵は、このひとには無理なんだな、というふうに、わたしを悩ませるだろうなとか、わたしのやり方では、このひとはうまくいかないなとか、そういうふうに考える。
……サークルに来るいろいろなひとがいて、まあ偉そうだとか、逆にわたしなんか無理です迷惑かけちゃいますって異常に卑屈なひととかね、それが、変わる。サークルの真ん中にいると、手に取るようにわかる。そのひとたちが、許しを得て、自由でいいんだとわかったときの、花開いた時の、もう天才だ! ッて思う姿をたくさん見てきた。それがわたしにとってのギフトだった。一瞬自分がどんな猿知恵の判断をしていても、あくまでもそれは猿知恵。ひとつ信用したら、またいいことがあったと積み重ねて、ライトになりたっていったのが、変わったところ。

▼ガオリュウさん
—–じゃあ、最後に、ファシリテーションとはなんですか、という問いを。ここにいるひとたちにも聞きたいけれど。

▽佐々木さん
……全員400字以内で提出してください(笑)
……最初の頃はごりごりのエゴなのだけれど、大撃沈することがある。そういうときひとは自分を正当化している。自分が困るのは、サークルだから、360度周りにひとがいるから、だからにこにこしていないとみんな不安になるから、自分はにこにこしていたけれど、しまった、と思う時がある。ファシリテーションが失敗したと自分が思うということは、みんなが失敗してしまうということだと思ったので、もうそういうときは、方策として、いったん置いておく。そこから退場する。それで誰にも見えないところで、ううううう、ってすごく困った顔して(笑)、戻ってからみんなの前ではにこっとする。そうすることでみんなのことを安心させる。
……今日はひとまえで自意識を持つことなく、言いたいふうに話す、というのがテーマだった。

そして、7月から佐々木さんが向き合ってきた取り組みについての話で締めくくられたが、その話は佐々木さんご本人のblogに詳しいので、リンクで残しておこうと思う。

blogs.yahoo.co.jp

自分の感想は、このあとの記事で書いていくことにするけれど、しばらくいろいろなことを考えられそうだ。